日々おさしみ

さしみばっかり食べながら、生きてます。

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自分のこれまでを振り返る-GIDクリニック2回目

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GIDクリニックの2回目の通院を終えたので、また記録。

 

今回は心理士の先生と自分史を振り返るという内容。
生まれてからこれまで(もっと言えば両親のなれそめから)…を3時間ほどかけてじっくりと話をする。
自分の人生をこんなに時間をかけて人に話をしたことが初めてで、恥ずかしいというのが率直な感想。
まだ2回目だけど、お会いする先生方はみなさんとても優しくて安心させてくれる。
勇気を出して通うことにしてよかった…と毎回思えることが、本当にありがたい。

 

下着はどんなもの?親が買ってきたもの?
水泳の授業で水着はどうだった?
修学旅行でのお風呂はどうだった?
自分の名前についてどう思うか?
普段の生活でトイレはどうしているか?

など、もちろん性に関する違和感に焦点をあてたテーマもあった。
それだけではなくて、むしろそれ以外のことをたくさん話をしたと思う。
趣味や好きなゲームやおもちゃのこと、学生生活のこと、部活動のこと、友人関係、興味のあること…など。

 

自分のこれまでの人生を話しながら、ずいぶん私は恵まれていたんだなぁと何度も思った。
小学校~大学まで、性に対する違和感はもちろんあったものの、それでものすごくつらい思いをしたかというとそうではなかったからだ。
両親や友人、私の周囲にいるほぼすべての人が、男っぽい私のことを周囲はそれとして受け入れ、また、女性らしくすることを求めなかった。
身体は女性だということは理解していたし、その事実は変えられないから、赤いランドセルも制服のスカートも受け入れてきた。それを妥協してなんとかうまく折り合いをつけてこられたのは、女性だから身に着けなければならないオプション品の存在を忘れるほど、自由にさせてくれた周囲のおかげなんだということに、こうして話をしていて初めて気が付く。

社会に出るとそうはいかなくて、ビジネスマナー本には「女性は軽く化粧をすることがマナー」なんて書いてあるし、初めて働いた会社では「女性としての自分」を求められる機会が増えてしまい、どうしてもそれに耐えられなくなって、2年で退職してしまった。けれど、今思えばその会社の先輩方や同期も、少し普通ではない男っぽい私を最大限理解して受け入れてくれていたように思う。若すぎて尖がりすぎていた私には気が付かなかっただけで。

 

「性の違和感でつらい思いをしていなさそう、女性として生活していけるのでは?」と感じられるかもしれない。自分が話を聞く立場だったらそう思うと思う。
でもそれは違う。
毎日、違う名前の読み方で呼ばれるような違和感。
ずっと付きまとう違和感がぬぐえない、気持ち悪さ。
幸せな毎日のど真ん中にある黒いシミ。
贅沢者なのかなぁなんだか難しいなぁ自分…と思った1日だった。

 

「職場で同性パートナーでも結婚祝い金がもらえるようになったよ」と報告を受けたりする。
時代は動いている。男っぽい自分を受けれてもらえる環境があって、同性同士のパートナーシップが認められるなら、性別なんて変えなくてもいいんじゃない?と考えるのもアリなのかも?
でも、そうじゃない、同性パートナーとは呼んでほしくない!と思っちゃうから、やっぱり簡単じゃないんだよなぁ。

 

新しい人生のはじまり-GIDクリニック1回目

〇 これまでのGIDクリニック履歴はこちらをご覧ください

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わたしの詳しいプロフィールはまた後日ゆっくり書くとして、6月26日はわたしにとって新しい人生のはじまりとなりました。備忘録がてら記録しようと思います。

 

GIDクリニック1回目

 

10時ごろ 某病院に到着、新患受付。大きい病院なので、紹介状がないと初診料が高くなる説明を受ける。通称で呼ばなくていいか?と受付段階で聞かれたけど、特に必要無い旨回答。

 

10時半ごろ 精神科へ移動。前もって担当医とは別の医師による予診。これまでの経歴や性格のこと、GIDについてのことなどをお話しする。だいたい1時間程度。

 

予診した医師と担当医との間で内容の報告があるため、お昼を食べてくるように指示される。

 

12時半ごろ 担当医と面談。予診してくださった医師も同席。とても和やかな雰囲気で、今後どうしていきたいか話す。わたしの場合は女性から男性への治療を求めているので、その場合の治療の流れなど。

質問や不安に感じていることなども、ゆっくり書いて丁寧に説明してくださり、とてもありがたかった。次回の予約をして終了。

 

次は心理カウンセリング。

精神科の先生ということもあるのかもしれないけれど、医師の方たちがみなさん優しくて、とても安心できた。ここなら全てを相談しようと思えたことが、なによりありがたい。

 

小さな一歩だけど、やっとスタートラインに立てたような気がして、なぜだかホッとした。

 

出る杭は打たれるが出過ぎた杭は打たれない、そして抜かれる

最近感じることが「出る杭は打たれる」ということと、「出過ぎた杭は打たれない」ということだ。そして、決まってその杭は「抜かれる」。

 

もし、周囲にいい意味で出過ぎた杭があるとして、それが気に入らないのなら、どうしてこの出過ぎた杭が気に入らないのかを一度考えるべきだ。

出過ぎた杭を抜くことが、本当に自分のためになるのか、組織のためになるのか。

つまらない自分のプライドを守るため、組織を犠牲にするような行動をとっていないか、発言をしていないか。

出過ぎた杭を悪として、自分を正当化していないか。

そして、自分が出過ぎた杭の代わりになれるほど、力があるのか。

 

一度抜かれた杭を、また同じように戻すことは難しい。

杭の高さはちがっても、それぞれが繋がりをもって同じものを支えている。

組織ってそういうものだと思うのだけれど。

どうして、多くの組織人がそういう考え方ができないのか、残念でならない。

クリスマスが今年もやってくる

くーりすますがことしもやってくる♪

たのしいこと、うれしいこと

けしさーるよぉにー♪

 

何も考えず適当に歌ってみたら、とても寂しい歌になった。

隣に座っていた知り合いが「えっ」といったから、

何かが変だと気が付いたけど、実際はどんな歌詞だったっけ?

クリスマスは明るくてとても好きです!

今がいちばん若い

季節が巡って、歳を重ねる、今がいちばん若い

 

モーニング娘。の元気ピカッピカッ!という曲の歌詞の一部で、こんな感じのフレーズがでてくる。

 

ほんとそうだよなぁ!とシミジミきて、今週も頑張ろうと思える自分の単純さって嫌いじゃない。

親元を離れたら、今後一緒に過ごせる日数はどれくらいかを計算すべき

実家を出て一人暮らしを始めてから、17年ほどになる。

 

今の家から実家までは、ドアtoドアで4時間の距離だ。

1人暮らしを始めたころは、まだ写メールなんてものが出始める前だったし、そもそも親が携帯電話を持っていなかったら、それこそ連絡をとることがなかった。

 

「生きてる?」

 

と母から電話が月1で来るような感じだったし、それが自立だと勘違いしていたような気がする。便りがないのは・・なんていう都合のいい言葉で、わたしも親も納得していた。

 

今現在は両親がスマホを使いこなしているので、マメにLINEでスタンプが送られてくるし、画像のやりとりもしているから、毎日元気そうなことも知っている。

 

けれど、これから両親と過ごす日数はどれくらいあるんだろう?と計算すると、思いのほか少ないことにびっくりした。

 

私の場合、両親が平均寿命まで今のままの元気でいてくれるとしても、あと20年ほど。私が実家に帰るのは1年間で長くて5日。

日数にして、 100日 になる。

たった3か月。

 

親元を離れすぎるというのも、よくないもんだ。
できる限り実家に帰ろう。

どんなに電話やメール、LINEで話をしていても、埋められないものがあるんだよなぁ。

おなら を語る

お題「わたしの黒歴史」

 

わたしの黒歴史

 

思い出してみるといろいろなことがあるのだけれど、すぐに思いつく黒歴史が一つ。

 

中1の運動会の閉会式。

どうしても我慢しきれず、無音のおならをしようと頑張ったものの、大きな音のおならが出たこと。

 

もともとおならがよく出るタイプだ。

プップッとリズミカルに出せる。

バッという爆発タイプも得意。ただしこれには少々痛みを伴う時がある。

ペギッという変形タイプもできるし、ファスーという無音に近いものも。

ビィと鳴ったときは少しおなかが心配になる。

 

そんなわたしだから、無音で出すことにはかなり自信があった。

でも、人がたくさんいるところだし、ずっと外で疲れ切っていたし、一瞬の油断があったといえばウソじゃないと思う。

 

音が出た!と認識した時にはもう遅い。

そりゃそうだ、周りにも聞こえているのだから。

 

「・・ちょ、サシミ・・」

と後ろにすわっていたJちゃんがつぶやいたことがいまも忘れられない。

そんな思春期の黒歴史でした。